アイリス 張
JPN4017
Nov 2, 2017
プロジェクト下書き
日本へ旅行をしている時、多くの観光客は通よく神社の赤い鳥居と仏像がある寺で写真を撮っている。伏見稲荷大社や宮島神社の鳥居は今では富士山のような写真を撮る人気の場所であるかもしれない。そして、神社や寺を訪問する時に、しばしば、観光客はよく仏教と神道はふたつの日本の宗教です”という紹介を聞く。しかし、実は、日本の宗教の状況はこれよりもっと複雑である。
仏教は約6世紀に中国から日本に伝来された。その過程で、最も代表的な人物はおそらく仏教の文化を勉強ために中国への使者を派遣した聖徳太子と高野山を仏教の道場として開いた空海(弘法大師)であろう。段々、仏教は日本の土着の信念体系に一つのものにまとめて、平安時代までに日本文化の重要な一部となった。明治維新前までの長い時間に、神仏習合という現象が約千年ぐらい続いた。神仏習合ということは、日本の土着の信念を代表する神道と仏教が統一的信仰体系になっているということである。それについての例はたくさんある。例えば、聖徳太子の命令によってできた四天王寺は仏教の観音菩薩を祭り、その寺の周りにできたのは四天王寺七宮という神道の今の神社のような神宮寺という施設である。それに加えて、仏教の聖地の高野山にも、お寺の近くでよく赤い色の鳥居が見える。
聖徳太子が仏教を日本に広げた約1300年後、西洋の黒船が日本にやってきた。歴史から学んだように、明治天皇は日本が西洋の国に追いつくという願望があり、日本を近代化するために明治維新を推進した。けれど、その時、政治の政権を握っていたのは江戸幕府であり、地方は藩という自治体によって施行された。つまり、改革を実行するために、明治天皇はまず幕府と藩から権力を取り戻し、統一的な政権を固めなければならなかった。坂本龍馬のような維新志士のおかけて、明治天皇は首尾よく政治権力を手にした。そして、天皇を中心とした天皇の権力を神格化するために、神道を神仏習合の信念体系から離れ、明治政府は神道を国教化した。いわゆる神仏分離の政策により、天皇が天照大神という最高の神の子孫なイメージを作り、独裁的な政府が確立した。
その間に、廃仏毀釈運動が全国でおこり、仏教は外来思想としてを廃棄された。廃仏毀釈という運動は約1870年に始まった。全国的に仏教の施設が打撃を受けた。神社の仏像を取り除かせたり、寺院・仏壇・仏像が破壊されたり、寺院の僧侶が還俗させられて寺院の建物は政府の庁舎になったり、伝統的な神宮寺は全部神社の名称を使え始めたり、地方によって、ざまざまな対策が施行された。廃仏毀釈運動の影響は今でも神社と寺で見られる。その例のひとつは京都に最も有名な神社、伏見稲荷大社である。明治時代以前、伏見稲荷大社は荼枳尼天(だきにてん)という仏教の神を祭っていた。中世からの絵からわかるように、荼枳尼天の姿は狐を乗ってる天女である。その姿は今も鎌倉や金沢などの小さい寺に見られる。しかし、明治時代、伏見稲荷大社の荼枳尼天の彫像と画像は中心の壇から他の神社に移され、稲荷神という狐神だけを祭られるようになった。今廃仏毀釈運動が終わったけれど、仏教と神道は2つの異なる宗教とみなされている。そして、神道の神社と仏教の寺もお互いに関係がない施設と思われている。
明治維新の時期と言えば、政治的な変化と並行して、経済的、社会的な変化も推進しているという積極的なイメージがある。だか、「美化されすぎた明治維新」という見解を示す学者もいる。明治維新の良い点を理解した上で、同時に起こった問題も重視しなければならないと思うが、これは現在の世界にも関連している。政権を固めるため、また、現代国家を造るため、ナショナルアイデンティティーの強化のために、社会の一部が「外来のもの」として疎外されるのは、今もたくさんの国にある現象である。全面的に明治時代を描くことは現代社会で宗教とナショナルアイデンティティーにも意義深いである。
「廃仏毀釈と神仏分離」
宫下 良明
http://jairo.nii.ac.jp/0140/00001184/en
「近世における神仏関係 : 習合と分離」
澤 博勝
https://www.jstage.jst.go.jp/article/rsjars/83/4/83_KJ00006202816/_article/-char/ja/
「廃仏毀釈による寺院の転用について-高知藩内の四国霊場を事例として-」
平田 卓也、砂本 文彦
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/78/692/78_2213/_article/-char/ja/
JPN4017
Nov 2, 2017
プロジェクト下書き
日本へ旅行をしている時、多くの観光客は通よく神社の赤い鳥居と仏像がある寺で写真を撮っている。伏見稲荷大社や宮島神社の鳥居は今では富士山のような写真を撮る人気の場所であるかもしれない。そして、神社や寺を訪問する時に、しばしば、観光客はよく仏教と神道はふたつの日本の宗教です”という紹介を聞く。しかし、実は、日本の宗教の状況はこれよりもっと複雑である。
仏教は約6世紀に中国から日本に伝来された。その過程で、最も代表的な人物はおそらく仏教の文化を勉強ために中国への使者を派遣した聖徳太子と高野山を仏教の道場として開いた空海(弘法大師)であろう。段々、仏教は日本の土着の信念体系に一つのものにまとめて、平安時代までに日本文化の重要な一部となった。明治維新前までの長い時間に、神仏習合という現象が約千年ぐらい続いた。神仏習合ということは、日本の土着の信念を代表する神道と仏教が統一的信仰体系になっているということである。それについての例はたくさんある。例えば、聖徳太子の命令によってできた四天王寺は仏教の観音菩薩を祭り、その寺の周りにできたのは四天王寺七宮という神道の今の神社のような神宮寺という施設である。それに加えて、仏教の聖地の高野山にも、お寺の近くでよく赤い色の鳥居が見える。
聖徳太子が仏教を日本に広げた約1300年後、西洋の黒船が日本にやってきた。歴史から学んだように、明治天皇は日本が西洋の国に追いつくという願望があり、日本を近代化するために明治維新を推進した。けれど、その時、政治の政権を握っていたのは江戸幕府であり、地方は藩という自治体によって施行された。つまり、改革を実行するために、明治天皇はまず幕府と藩から権力を取り戻し、統一的な政権を固めなければならなかった。坂本龍馬のような維新志士のおかけて、明治天皇は首尾よく政治権力を手にした。そして、天皇を中心とした天皇の権力を神格化するために、神道を神仏習合の信念体系から離れ、明治政府は神道を国教化した。いわゆる神仏分離の政策により、天皇が天照大神という最高の神の子孫なイメージを作り、独裁的な政府が確立した。
その間に、廃仏毀釈運動が全国でおこり、仏教は外来思想としてを廃棄された。廃仏毀釈という運動は約1870年に始まった。全国的に仏教の施設が打撃を受けた。神社の仏像を取り除かせたり、寺院・仏壇・仏像が破壊されたり、寺院の僧侶が還俗させられて寺院の建物は政府の庁舎になったり、伝統的な神宮寺は全部神社の名称を使え始めたり、地方によって、ざまざまな対策が施行された。廃仏毀釈運動の影響は今でも神社と寺で見られる。その例のひとつは京都に最も有名な神社、伏見稲荷大社である。明治時代以前、伏見稲荷大社は荼枳尼天(だきにてん)という仏教の神を祭っていた。中世からの絵からわかるように、荼枳尼天の姿は狐を乗ってる天女である。その姿は今も鎌倉や金沢などの小さい寺に見られる。しかし、明治時代、伏見稲荷大社の荼枳尼天の彫像と画像は中心の壇から他の神社に移され、稲荷神という狐神だけを祭られるようになった。今廃仏毀釈運動が終わったけれど、仏教と神道は2つの異なる宗教とみなされている。そして、神道の神社と仏教の寺もお互いに関係がない施設と思われている。
明治維新の時期と言えば、政治的な変化と並行して、経済的、社会的な変化も推進しているという積極的なイメージがある。だか、「美化されすぎた明治維新」という見解を示す学者もいる。明治維新の良い点を理解した上で、同時に起こった問題も重視しなければならないと思うが、これは現在の世界にも関連している。政権を固めるため、また、現代国家を造るため、ナショナルアイデンティティーの強化のために、社会の一部が「外来のもの」として疎外されるのは、今もたくさんの国にある現象である。全面的に明治時代を描くことは現代社会で宗教とナショナルアイデンティティーにも意義深いである。
参考文献
「廃仏毀釈と神仏分離」
宫下 良明
http://jairo.nii.ac.jp/0140/00001184/en
「近世における神仏関係 : 習合と分離」
澤 博勝
https://www.jstage.jst.go.jp/article/rsjars/83/4/83_KJ00006202816/_article/-char/ja/
「廃仏毀釈による寺院の転用について-高知藩内の四国霊場を事例として-」
平田 卓也、砂本 文彦
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/78/692/78_2213/_article/-char/ja/